しがない俳優厨から見たドリフェス!プロジェクトの話

記憶力がゴミなので、いつか過去になる今をどこかに残しておきたいおたくの忘備録です。
照準は完全に推しです。そして武道館というよりも、この3年間の話。
何かを伝えたいわけではないし、ミジンコほどの文才もありません。



2018年10月21日 日本武道館
約3年間のドリフェスプロジェクトが幕を閉じました。

ドリフェスプロジェクトは若手俳優が声優とアイドルをやるので、各界隈で興味を持つ人はある程度いただろうし、 キャスト全員アミューズ所属なので、アミューズの上のお兄様方から流れて片足突っ込んだ人もかなりいるし、 アプリゲーム、アニメ、DCDデータカードダス(なんかゲーセンにおいてあるお金を入れるとカードを輩出する機械) と割と広く様々な方面に展開されてたので、一番最初の入り口はバラけていることが多いジャンルですが 私のドリフェスはDearDream黄色担当富田健太郎くんからはじまりました。
もとから推してた俳優さんがドリフェスキャストになったパターンですが、
今や日本武道館を埋めるドリフェスおたくのルーツとしては一番少数派かもしれない。



2015年10月8日18:00
今よりはだいぶ更新が多かった(今は年1回ペース)富田くんのブログにスタッフブログが投稿されました。
ちょうど炎の蜃気楼瑠璃燕ブルース(ミラステ)の初日の幕が開ける1時間前でした。
2015年12月に下北沢で上演された、舞台「俺と世界は同じ場所にある」の告知ブログ。
アミューズの若手4人の舞台で、富田くんもすごくうれしそうで気合十分って感じで。
けど私は少しだけ違和感を感じました。
富田くんのブログにスタッフが投稿したのはその時が2回目。1回目は、ブログを開設してから初めての舞台の告知でした。それから約1年半で、富田くんは6つの舞台に出演したけど、情報解禁も、派生イベントの告知も自分一人でやってたから。 単純にスタッフブログでの解禁が珍しいなって思ったんです。

翌日
2015年10月9日12:00
富田くんのブログに3回目のスタッフブログが投稿されました。
これが、2.5次元応援プロジェクト「ドリフェス!」のキャスト解禁でした。
当時いた富田くんのおたく全員が、もう今までのようにはいかないってことを理解した瞬間だったと思います。
はっきり言うと、富田くんが勝ち取った大きな大きなお仕事を、手放しに喜ぶおたくは、当時1人もいなかったと思う。

だって意味わかんなくないですか?
ついこの間までダブル主演の片割れとして千秋楽のトリプルカテコで涙ぼろぼろこぼして頭下げてた。
もともとあれこれ饒舌に語る人ではないし必死な顔も辛い顔も表に出そうとはしないけど
千秋楽はいつも、頑張った分、大変だった分、楽しかった分、気持ちが溢れかえるみたいで、 芝居がやりたいって気持ちとか楽しいって気持ちとかを目前に突き出されているように当時のおたくは感じてたと思うんです。
それが急に声優?アイドル?エールはドリカが示すもの???イケるっしょ???いやいや何もイケないし。

富田くんはこれでいいのか、これがやりたかったことなのか、やりたいことだけやるのがお仕事じゃないってわかってる、。でも、それでも、私たちは何を応援していけばいいんだろう? たぶん、みんな、得体の知れないプロジェクトが怖かったんだと思います。
不思議なことに、人は何かに恐怖するとそれに関連するいろんなことに不信感を抱くんですよね。
私は、アミューズの仕事だからって急にスタッフがブログを更新することをすごく不遇だと感じたし、 アミューズに囲い込まれて、向こう数年ドリフェスが終わるまで外部の舞台に出にくくなることを知ってすごく悲しかった。 富田くん本人の気持ちを信じられなくて、環境の変化についていけなくて、離れていくファンの子もたくさんいました。

それになによりドリフェスの未来が不安だった。
2.5次元アイドル激戦の時代で、たいして陽の目を見ずに消える似たようなアイドルプロジェクトはいくつもある。そんなことに推しの大事な20代を何年間も(当時の私は短くて2年長くて3年ってゆってたかな)使われるのが嫌でした。

①富田くんが本当にやりたくてやってるのかわからない仕事をこちらはどう見れば良いのかわからないこと
ドリフェス期間は事務所にガッツリ拘束されて外部舞台をやれなくなること
③長期間1つの役を継続的に演じることで、ドリフェスからついたファンは役と富田くんを同一視するんじゃないかということ
ドリフェスプロジェクトが、いつかなかったかように廃れて富田くんの数年間が消えてしまうかもしれないこと
まあ他にも色々不安はあったんでしょうけど、ざっくり纏めるとこんなことですが、わたしにとっては死ぬほど泣いたくらいの恐怖と不安で、全然ドリフェスを受け入れられなくて。
それをわたしは結構はっきり本人に伝えていたと思うし、ツイッターなどでも隠さなかった。今思うと、良いファンじゃなかったなあ。だからその時ドリフェスからついた富田くんファンの方々とは全く相容れなくて。まあ、そりゃあそう、わたしが悪いです。

ここまで長かったですが、ようやく現場が始まると、まず思ったことは「俳優厨呼ばれてない」。
最初のAGFとかアニメジャパンとかは、出ます!って言われた時点でチケット先行はもう終わってて手遅れです!なんてザラでした。
でも考えてみれば、ドリフェスはファンの獲得に必死で、そのターゲットはAGFのチケットの仕組みがわからなくてアワアワしてる俳優厨じゃなくて、すでにAGFにいる二次元のおたくなので、考えてみなくても当たり前のことでした。笑
でも俳優厨っていうのは推しの現場に自分が存在しているかどうかが死活問題なので、そんな環境で当時いた俳優厨はみんなよく頑張ったなって思います。


2015年11月7日・8日
ドリフェス!プロジェクトの本格的な幕開けの日。
アニメイト本店と、池袋セガと、ナンジャタウンの3ヶ所でドリカを集めて、先着100人がトークショーの参加券を獲得するイベントでした。通称池袋マラソン。(わたしが勝手に呼んでるだけ笑)
それはもうおたくは鬼気迫る勢いで、池袋を爆走しますよ。たぶん雨が降ってたとおもう。
アニメイトのお姉さんがドリカを1人1人に配るのを諦めて、おたくの群れの中に纏めて突き出していました。
お姉さんの地の果てを見たかのような虚無顔を、3年経った今でも覚えてます。あのお姉さんはドリフェスのおたく死ぬほど怖いと思ったことでしょう、ごめんね働くお姉さん、、。
その初イベントでディアドリの5人は池袋の路上で通行人の方々にドリカを配ってました。
駆け出しの若手俳優、新人声優、新人アイドル、どれが正解なのかよくわからなかったけど、なんてったってわたしにとっては大切な「推し」。
推しが路上でビラ配りって、切なくない???


2016年4月(日付は忘れました)
ドリフェス!のアプリがリリースされた日です。
声優初挑戦の5人だし、多目見てあげてくれ~~って私たちがいくら思っても、世間には通じないわけで、アップルストアのアプリ評価は地を這っていました。
わたしの友人には、二次元のおたくがそれなりにいたので気乗りしないながらも一応推しが出てるので、ドリフェスよろしく!!って、事前登録をみんなにしてもらってたんですが、アプリがリリースされてからたくさん連絡が来て、みんな嬉々として教えくれました。どれだけ声優として酷いかって。耳を塞ぎたくなりました。


2016年6月26日
ドリフェス!のはじめてのファンミーティング。
ちゃんとしたホールを借りて、全員でやるのはこれが初めてだったかな。
場所はサイエンスホール。日本武道館の脇の、草木が覆い繁った道を進んだところにあるキャパ400人くらいのホールです。チケット代金は0円。無銭イベントでした。
富田くんは、舞台BROTHERS CONFLICT3の初日とこのイベントの間が2週間しかなくて(ブラステに出してもらえたのはほんとにイレギュラーで感謝しかない。ありがとうございます)昼間にブラステ稽古、終わってからファンミの深夜練なんていう日もあったっぽい?
迎えた当日、客席はとても満席とは言えなくて、最前列にも空席がありました。
でもそんな客席を見渡して、赤担当石原壮馬くんが言ったんです。

「いつか、隣に立ちたい」

必要ないと思いますが注釈すると、ここで言う隣は日本武道館のことです。
無銭イベントで400人のキャパを埋められないプロジェクトが、武道館。
あんまり覚えてませんが、たぶん笑ってた気がします。キャストも、客席も、笑ってたような気がする。


2016年9月23日
アニメ「ドリフェス!」第1話の配信日です。(TV放送はもっと後)
ここがドリフェスプロジェクトの入り口になった人はかなり多いんじゃないかな?
わたしは上映会で一話を見ました。
不安で心臓を絞られそうになりながら上映会に行きました。このときにはアプリ当初と比べると、劇的に声が上手くなっていて、5人の急成長に感動したのを覚えてます。


2016年10月1日
アニメ「ドリフェス!」OPとEDのリリースイベント。池袋サンシャインシティの噴水広場でのフリーライブでした。この時はじめて、それなりの曲数をライブとして披露したことになります。
激しいダンスを何曲も歌って踊る富田くんに衝撃をうけました。
こんなこと本人は言われたくないかもしれませんが、富田くんのダンスイメージといえば何故か関節がめちゃくちゃ固くて膝とか曲がらないし、リズム感なくて舞台のカテコの出のタイミングを共演者さんにカウントしてもらってた所にあったので(馬鹿にしてません、尊い)、ユレルミッドナイトをぱきぱき踊る富田くんに唖然としました。
楽しそうだった。ドリフェス!が解禁になってからもうすぐ1年になろうとしていましたが、ド!現場で富田くんを見て、楽しそうだなって感じたのはこの日が初めてでした。
ディアドリのライブにたくさんの方が足を止めてくださって、ライブが終わる頃には、噴水広場のある地下一階から、吹き抜けになっている3階まで、見渡す限り人に埋め尽くされていました。
ドリフェス!プロジェクトのプロデューサー臼倉さんがぼろぼろ泣いていました。5人も嬉しそうに幸せそうに3階まで見上げては何度も頭を下げていました。

このイベントが私にとってのドリフェスの転機になりました。
さすがに1年も経てば、わたしの情緒もだいぶ落ち着いてきたし、結局のところ俳優厨なので、推しが前を向いて楽しそうにしててくれればなんでも良いんですよね。
1年間の時間を経てドリフェスとわたしも向き合おうと思いました。
もしかしたらこの先、富田くんのことを声優と呼ぶ人がいるかもしれない。アイドルと呼ぶ人がいるかもしれない。富田健太郎と佐々木純哉の境目がわからなくなる人がいるかもしれない。
でも富田くんが自分のことを、役者だと言う限り、わたしも役者富田健太郎の作品ドリフェス!に着いていこうと思いました。


信じられないことにこれだけ書いてまだ1年分なんです。信じられない!笑
でもこのあとのことは皆さんご存知だとおもうので、ウンウンそうだよねー程度で巻いていきます。


ようやくドリフェス現場を楽しみに出来るようになったとはいえ、ドリフェス現場って一筋縄じゃいかないんです。
真夏の炎天下6時間コースだったり、台風の中、横浜アリーナの軒下で夜を明かしたり、チケットを用意して劇場の椅子に座っているのがヲタ活の全てだった俳優厨は白目剥きそうになりました。
チケット申し込むのにもCDを買う必要があって、アルバムも枚数数えるのやめたくらい買った結果、ワンマンライブのチケットが1名義しか取れなかったときは泣きそうになりました。人生ギャンブル。思えばこの頃にはもうドリフェスは大人気コンテンツ!!!
福岡の小倉で12時からイベントをやったあと、広島に移動して16時からイベントなんていう1日もありました。
そんなこと物理的に可能なのかとびっくりしましたが、間でもつ鍋食べられるくらいは余裕でした。(日本の交通は便利で新幹線に乗っちゃえば一瞬。すごい。)
未だに忘れられないのは、キャパ70人くらいの小部屋(アニメイト内のイベントスペース)で、徹子の部屋方式でステージ上に椅子が2つ用意されていて、同厨70人に見られながら推しと1分間対談するイベント(通称:部屋イベ)。 
ステージに上がって椅子に座ったときに、あまりの状況の異様さに、なんかすごいね、、と呟いたら、間髪いれずに「ここにいる人はみんな仲間ですからねっ!!(意訳:同厨と仲良くしやがれコノヤロウ)」と言われたので(冗談です)、それからわたしはそこそこ同厨と仲良くする努力をしたんですが、まあわたし1人ではどうにもならないこともある。笑 相手がいるスポーツなのでね!(違う)

そんなこんなで大変なことも多かったし、それはキャストの皆さんも一緒でしょう。悔しかったり、しんどかったり、いろんなことがあって、それでもいつも舞台の上では楽しそうに笑ってました。わたしが参加しなかった現場でもきっとそうだったんだと思います。
おたくは、推しの感情に引きずられる生き物です。
ドリフェスの活動規模はどんどん大きくなって行って、ツアーでは全国5都市を回りました。
どんどん広くなるキャパにいつだって不安を感じましたが、その場にいってみれば不安に思ったことが申し訳なくなるくらいたくさんのファンで埋め尽くされてました。
そんなツアーが終わったころです。
2018年3月5日
ドリフェスプロジェクトの休止が発表されました。


そういえば、時系列がぐちゃぐちゃなんですが、
2017年7月14日
2.5次元アイドル応援プロジェクト「ドリフェス!」は、アニメ二期の決定と同時に、5次元アイドル応援プロジェクト「ドリフェス!R」へと進化しました。
2次元+3次元=5次元
知らない人には、何をいってるんだと思われるかも知れませんが、このリニューアルはドリフェスプロジェクトで一番の良策だったと思います。
わたしはアニメの中でしか佐々木純哉くんを見たことがありません。ドリフェスのイベントに来て、ステージ上にいるのはいつも富田健太郎くんでした。ウィッグ被ったりカラコンいれたりもしません。まんま、富田健太郎くんです。2.5次元とは言えど、実際は2次元と3次元に別れてしまっている。その曖昧さを5次元は解決してくれました。
キャラクターと役者のそれぞれを混合するのではなく、隣り合わせだったり、向い合わせだったり、背中合わせだったり、それぞれの形で自立することを許容してくれたように感じました。
ドリフェスプロジェクトは7人ではなく14人。その概念が明確になったのがこの頃でした。(わたしの話の中では全く触れられませんが、KUROFUNEがいます)

そして2018年10月20日、21日 日本武道館
約3年間のドリフェス!プロジェクトが幕を閉じました。

2日目の21日は、超満員でした。
ステージの際まで人が入っていました。
彼らも私たちも絶好調で、全員がドリフェスが好きで、仲間たちが好きで、楽しくてしかたがないって言う顔をしていました。
3年前の彼らといえば、モチベーションに差がありすぎて、性格にも差がありすぎて、恐ろしいくらいでした。自分の方向性に疑念を持ってる人もいれば、ドリフェスのために芸能界入りした人もいます。モチベーションが違って当たり前です。
それがいつのまにかお互いの個性を認めあって、リスペクトして、大事な仲間として同じ方向を向いてました。まじで尊い

武道館はそれぞれのソロステージがありました。
3年前ドリフェスが始まった頃に、武道館の大舞台に自分の推しがたった1人立つ姿を想像した人が何人いますか?池袋の路上に立たされてたんですよ。信じられないでしょ??

最初の方に書いた通り、私は良くないおたくだったので、最初の1年間は呪文のようにドリフェス終われ早く終われって唱えていました。
けど、ドリフェスが陽の目を見ずに、誰にも気づかれない所で終わるのを一番恐れてもいました。
だからこの武道館は素晴らしい終わり方だなって思いました。
どうせいつか終わるのなら、心から惜しませてほしい。たくさんの人に惜しまれて終わってほしい。

公演の終盤、会場は涙の渦でした。
わたしもこんなに声を出して泣いたのは久し振りでした。公演が終わって飲み屋に移動してからも事あるごとに涙が出ました。今まで全然思い出さなかった事まで全部蘇ったので、今こうして全部文字にしています。

もう何が言いたいのか訳がわからなくなってきた、というか、言いたいことなんてはじめから無くて、ドリフェスはサイコーのコンテンツでしたってことなんです。
ドリフェスを好きになった人達が、0からスタートしてるとしたら、わたしはめちゃめちゃマイナスからのスタートでした。
わたしだけじゃないでしょ?富田くんのおたくだけで数人はいると思うし、他のメンバーのおたくにも違いはあれど同じような葛藤があった人がいると思います。
そういうマイナススタートの人間ですら、ドリフェスは3年かけてサイコーの向こう側まで連れてきてくれました。
3年間楽しかった!!!!!!!!!!
辛い時期もあったけど、それを越えたからこそ今があるし、大変な現場も多かったけど、終わったあとはいつだって死ぬほど楽しくて死ぬほど推しが好きでした!!!!!
長々書いて、要約するとこれだけなんです。これだけのために延々読んでくれた方がいるとしたら、本当にごめんなさい笑

私のような3次元のおたくは、基本コンテンツにお金を落とすことが得意じゃないです。推しがそこにいるならフットワークは軽いですが、アプリ内課金とか、コラボドリンクとか、あれはやこれやのグッズにはあまりお金を落としてこれませんでした。(例外は多々いるとおもいます)
そこにお金をかけられる2次元のおたくの方々こそが、ドリフェス!の求めてたファン層だったと思います。
ドリフェス!プロジェクトをここまで連れてきてくれてありがとうございました。
そしてわたしと同じような俳優厨のみなさま、お疲れさまでした。慣れない環境で本当によく頑張りました。

見てはいないでしょうが、キャストスタッフのみなさまもお疲れさまでした。
3年間で培ったパワーで明日へと進もうと思います。

最後に富田健太郎くん。
「黄色のペンライト一色の中の富田くん」構図の写真が欲しいです。ご検討お願いします。

それから、ずっと役者でいてくれて、ありがとうございました。







21日の終演後、客席全員でALL FOR SMILE 歌ったの、サイコーにエモくないですか!?!?!?!?!?
だれがこの武道館の舞台を想像してたんだろう。

「いつか、隣に立ちたい」

根拠のない 言葉も今は 確信になった
ALL FOR SMILE!  熱くなろう!!!



ドリフェス!エモいわ~~~~!!!!!!!!!




おしまい。